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大正10年 夏②

 永井は去り際、思い出したように黒く大きな革鞄を探り、飾り紐をあしらった包みを置いていった。粉の焼けた甘い香りがした。大方行きつけのレストランで包ませた上等な菓子だろう。本来なら客人に茶でも振る舞うべきだったが、あいにく守也はそういった瑣事が苦手だったし、そもそも彼の部屋には寝台と机の他は、小さな箪笥と本棚、少々の工具しか置かれていない。
 人の生活というものが感じられない部屋だった。ドクターの言葉を借りれば修道士達の住居のようでもあった。守也はその西洋造の殺風景な住まいを気に入っていた。ここでは食事は取らない。煙草も吸わない。褐色に沈んだ部屋には、今は陽光で輝く微かな塵が見えるのみだ。この空間で活字を追っていれば、窓から絶えず紛れ込む臭気も、階下から毎夜のように響く喧騒も気にならない。
 読みかけの新聞に目を走らせ、菓子とともに手渡された資料を流し読むうちに、まちを焼く日差しは少しだけ穏やかになったようだ。組み置きの水で絞った手ぬぐいで顔を拭き、特注の色付き眼鏡を身に付ける。身支度に風呂敷で包んだ菓子折りを加え、自室の扉を閉める。付替えたばかりの自作の鍵は油でよくすべり、カチャリと小気味良い音をたててその用を成した。
 一階の食堂を覘くと、煙草と酒の匂いが残っている。カウベルの付いたドアは開け放たれているにも関わらず、すべての窓が締め切られている。厨房にも人の気配はない。家主とその仲間の男達は昨夜も遅くまで札遊びに興じていたはずだ。擦り切れて既に色あせた数枚の札と空の酒瓶が床に転がったままだ。さっきの二人には見られてしまっただろうなと苦笑しながら、テーブルに置かれたマッチ箱をとって軽く振ってみた。シャカシャカとわずかに残るのを確認する。そのままマッチを拝借すると、縦襟シャツの胸ポケットに放り込んだ。
 戸口の先の石段を下り、舗装されていない道に足を付ける。地面に蓄えられた毒気が太陽熱で膝上まで漂い出ている様子を想像する。色眼鏡を通して見た守也の世界は、いつもどおりの灰色だった。
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大正10年 夏①

 光源のない室内に、明るい陽が差し込んでいる。手元の活字から視線を上げると、小奇麗な格好をした男達が歩いてくるのが二階の窓からでも見えた。こちらへ近付く二人には随分と背丈に差がある。長身の男は興味深そうに顔の向きをかえ、頭の上で夏の太陽光を吸収する黒い帽子を揺らしていた。
 この建物の位置と特徴は伝わっているはずだ。守也は窓際に座ったまま読みかけの新聞に目を戻し、ドアがノックされるのを待った。紙面には先日造船所の工員らで行われた労働争議の特集が組まれていた。見出しには労働者とそのストライキを支持する文句。
 随分と経ってから革靴で薄い木の階段を慎重に登る音が聞こえた。今にも割れそうな木の軋みが建物全体に広がっているようだ。二人分の気配は部屋の前でとまり、ガンガンと不躾に扉が叩かれる。白光を反射する紙を見続けた目には部屋の入り口はまさに暗闇だった。守也はゆっくりと窓際の椅子から立ち上がり、左手で探り当てた取手をつかんでドアを押した。
「悪いねぇ。メシを入れていたら遅くなってしまった」永井達夫は小柄な身体を折り曲げながら、器用にその人懐っこい丸顔を守也に向ける。後ろでは長身の男が帽子を胸に抱え、目だけで挨拶をした。二十台半ばといったところか。堀の深い丹精な顔立ちには、穏やかな微笑をにじませていた。
 守也も笑みに見えるよう表情を作りながら二人を部屋に招きいれ、椅子を机に並べて客人に勧める。椅子は二つしかない。永井が席に着くのを見て躊躇する男をよそに、自分は小さな踏み台を返して机に向かった。「お一人だと聞いていたのですが」長身の男に一瞬視線を投げかけ、正面に座った永井の目を見つめた。
 急に思いついてね、と永井は悪びれずに言った。「彼は私の知人で記者をしている佐伯君。駅で偶然見かけてね、久しぶりだから昼飯でも食おうと声をかけたんだ。世間話をしている内にここの話しになったんで誘ってみたら、是非同行したいというものだから」
「佐伯です。又新の記者をしています。永井先生にお声がけいただいたので、僭越ながらご一緒しました」生ぬるい空気の中、男の涼しげな声が漂う。「もしお邪魔でしたら席を外しますが」
 結構です、と守也は答える。別にやましい話しをするわけではない。机上で折りたたまれた新聞を一瞥してから、立ち上がって再度椅子をすすめた。

 永井の依頼は前に聞いていた通り、大通りから南に広がる貧民窟の案内をしてほしいというものだった。スラムで一日滞在し、そこで暮らす貧民達の生活を観察するらしい。期日は二日後、彼の所属する学会の若手二名も同行する。これも守也は既に知っていた。わざわざこんなところにまで打ち合わせに訪れるなんて、ご苦労なことだとも思う。
 そういえば、と守也は切りだす。「この件ははじめドクターに依頼されていたでしょう。なぜ急に僕のところに?」
「だってあの人は…」永井はくくっと含み笑いをしながら、先ほどまで守也が読んでいた新聞を広げ、一面を示す。そこには争議の逮捕者の一人として、守也がドクターと読んだ男の名前が記載されていた。「いつ出てくるかわからないなら日程調整だってできないじゃないか」
「すぐに釈放されると思いますよ」それまで二人の話しをだまって聞いていた佐伯が、ポツリとつぶやく。
 守也は彼が自己紹介の後には一言も喋らなかったことに思い至り、記者というのはこんなにおとなしいものだったかと不思議に感じた。
 フンと鼻を鳴らして永井は言う。
「それにね、もうドクターには二三度、話を聞かせてもらってはいるんだよ。うちのお偉いさんと一緒にね。でもあの人はなんというか、想いが勝ちすぎる。不幸だ、可哀想だ、何とかしてやらねばと熱弁されてもね。はっきりいって先生方は白けてしまった」
 守也の無表情に気づいたようだ。永井は少しだけ顔を引き締めて続ける。
「もちろん、その情熱は理解できるし、大事なものだと思う。長年スラムで活動しているあの人の貧民への愛は本物だし、私だって同情している。ただ慈愛、博愛で語っても議会や役人達を動かすことはできないよ。一般市民の生活だってこの不況で大変なんだ。社会情勢を無視して理想を貫けるなどとは幼稚にもほどがある。まず必要なのは客観的事実。我々は君に連れられて、スラムで暮らす奴らの一日を体験する。その時ドクターに来られていつもの感じで力説されても、正直いって邪魔臭い。なぁ、君だってそう思うだろ?」
 言われて守也はドクターが時折見せるとんちんかんな言動を想起し、思わず苦笑してしまう。
「あの、予定を空けておきますので私も同行させてください」佐伯がいった。
「おお、いいじゃないか。ルポルタージュの専門家が連れ立ってくれるとは心強い。なぁ、君」
 はしゃぐ永井の言葉に守也は微笑でうなずく。
「じゃあこれで決まりだな」丸顔の男は破顔しながらわざとらしく両手を打った。
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